COLNAGOに愛を込めて

毎週部練で岩沼の方へ向かう。

最初の頃は行くだけでも疲れていたが、最近は明らかに以前よりは近く感じる様になった。慣れだろうか。それなりの回数そこで練習していると事故なども起こったりもするが、他の変化としては周りの人も認知してくれていることだろう。

 

今日、練習終了後の帰り際、おっちゃん(おっさんというよりは)に話しかけられた。そのおっちゃんもロードバイクを乗っていたが、そのバイクは見るからに令和では販売していなさそうなパープルのバイクだった。

 

そのおっちゃんは以前、佐渡トライアスロンに出場したことがあったそうで、スイムは2桁順位、バイクラップはなんと1番だったらしい。「自転車競技出身だったから、バイクは出来たんだ」と照れ臭そうにサングラス越しで話す姿は、もしかしたら当時と変わらないのかもな、なんて思いながら聞いていた。

 

しかし、そんな自転車を愛していた経歴があるにも関わらず、最初に印象的だったバイクはやはり30年以上前から使っているものだそうだ。自分の感覚的には自転車乗りはそれなりの頻度で乗り換えるイメージだったので、数十年も同じ自転車を乗り続けていることに驚きだった。

当然の様に現代によくあるカーボンフレームではなく、クロモリで9速程度しか変速がないバイクだったが、おっちゃんは「ずっと乗り続けてるんだよ。長い距離は疲れるけどね。」なんて自嘲とも形容しない様な爽やかな話ぶりだった。まさしく相棒という関係性なのだなと少し羨ましく思うと同時に、ものをそんなに長く使うことができることに純粋に感動した。

 

本当はもう少し話を聞いてみたかったけれど、後輩もいたので礼をいって別れた。

道ゆく高い自転車(ドグマとか)を見ると富の象徴だとか捻くれた考えがよぎるが、それはそれで真摯に趣味に向き合っていて賞賛されるべきだ。でも、今回はこのおっちゃんにスポットを当てたい。その相棒はおっちゃんの人生の半分を寄り添ったと言っても過言ではない代物だろうし、その間に色々なドラマがあったのだろう。結婚して、子供が生まれ、育児や仕事に追われながらも懸命に生活し、子供が学校に行き始めたと思えば家から離れ、孫が生まれ、また趣味を始める。そうして、部活に勤しむ学生を見ては声をかけて、ちょっとした自慢話をしてしまう。

 

もし本当にそんな人生を送っているのなら幸せな人だななんて帰り道に想像してしまった。すると、信号待ちをしている僕らの前を、さっき別れたばかりのおっちゃんが70歳を超えているとは思えない原付にも負けないようなスピードで、目の前を過ぎ去った。いぶし銀に光る紫色のフレームが、太陽の光を反射させ不思議と一際目立っていた。

 

さて、自分は今のバイクを大切にできているだろうか。サビサビのチェーンを変えたばかりで、お世辞にも大切にしているなんて人には言えないが大切にしたい気持ちはある。DV夫みたいなことを言っている気もするが、まあものは自分しか大切にできないからね。室内保管といいながら、研究室で屋外に放置させている時間の方が長い様な気もするけれど、その分毎日お世話になっているし、自分なりに大切に使いたいね。

 

 f:id:chamereon0415:20211003235658j:plain

 

Do it yourself

最近季節の変わり目を感じる。

天に向かって伸びていた青々しい稲は穂先が色づいて、ロードバイクを走らせる自分の傍で豊穣の季節を予感させる。

台風が訪れたり、カゲロウが大量発生したり、河原では金木犀が香りを漂わせてしていて、いよいよ秋が深まっていくのだと少し感傷的になったりもする。

 

最近、普通に生活しているだけでとても部屋が荒れる。

服とか脱ぎっぱなしのまま放置したり、本とかを適当に散乱させたり、鼻炎でゴミ箱がいっぱいになったりして部屋が疲弊していく。極め付けには、食器が見事なバランスで排水の悪いシンクに積み上げられていて、週の最後の方は食事の食器選びから大変だ。

そう言ったものを次の週のためにその週末に一挙に片付けるのだが、このサイクルを続けていくのはあまりにも不毛に感じたで、この3連休を使って少し改善していこうと思った。

 

服の問題に取り掛かった。寝巻きとかパーカーとかが適当に投げられていると見栄えも悪いので、置き場所を作ることにした。

最初にカゴでも置こうかと思ったが、結局カゴをどこに置くかというところと、もしカゴを床に置くのではカゴが邪魔になってあまり解決にならないなと思い頭の中で却下した。色々考えたが衣類をハンガーでかける方が畳む必要がないため楽だと思い、ハンガーラックを用意しようという結論になった。しかし、ハンガーラックを買うとなると、ネットでも受け取りが面倒で高いし、そもそも1m幅とかのものは置く場所が難しかった。

 

ということで、自分で作ることにした。今回はカラーボックスを元に家にあるもので適当に作れた。しかし、高さが90cm弱しかないので、服をかけるには低くて少し問題を抱えたハンガーラックになってしまった。とはいえど、新たにホームセンターで木材を買う元気はないので、DIYした自作ハンガーラックを愛で続けたいと思う。

 

こんなDIYをする気になったのも、先日母校の文化祭がテレビで取り上げられたらしく、TwitterのTLが少し賑わったからである。母校の文化祭は各クラスが木材切ったり、ネジで組み立てたり、ペンキで色をつけたりして大掛かりな装飾や展示を作るもので、自分のDIYのルーツは完全にそこにある。

放送を受けて、やはり当時を懐かしんであの時は頑張ったと思う人が多いらしく、そう言った旨のツイートを見ては首を全力で縦に振るぐらいには共感してしまうが、そんな懐古ツイートを呟く彼らは今何をしているのだろうか。

あの高校は本当にエネルギッシュな学校だったが、そこでピークを迎えてOB・OGとしていつまでも高校に縋り付いていているのはみっともない。得たエネルギーはまた別の場所で生かされる方がきっと楽しいだろうなと思う。あの環境の中で過ごした同期や先輩、後輩が今どこで何に対して頑張っているのか、そんなことをいつか聞いてみたい。

 

深まる秋に。

フジファブリック「赤黄色の金木犀

面倒ごとからの逃走

日々タスクが増える。

何かしら面倒だなと感じることがちょくちょく発生して、それらの処理に追われる。日に日にエントロピーが増大する部屋、溜まった洗い物を見てため息しか出てこない。

 

面倒だと逃げ続けてどこへ向かうつもりなのだろうか。駄々を捏ねるのは構わないが、停滞、もしくは悪化の一途を辿るだけだ。問題ごとに直面した時、何かしらのアクションを起こさなければならないと常々意識しているつもりだけれど‥上手くいかないこともある。

 

しかし、世の中ではそう言った考えの人は多数ではない。延期に延期を重ねたり、場合によっては他人に投げたりする。これらが悪いとは思わないし場合によっては仕方がなかったり、状況によってはそちらの方が良いことだって往々にしてあるだろう。しかし、さぞ他人が助けてくれることが当たり前のような、当事者意識の薄い考えを目の当たりにすると吐き気がする。

 

関わらなくていいという狡さが垣間見えるし、そう言った態度を非難しても誤解だのなんだの言われ、挙げ句の果てには責任転嫁されるだけでなんの解決にもならない。つまりそう言った人間に向き合うだけ無駄だ。

 

自分の成長を楽しみたい。タスクに自ら自分をアサインして、経験以上に何かしら得るものがあれば十二分にやる意味はあるだろう。知識の幅を広げるなり、スキルアップなり、たとえ一生使わない結果となっても何かしらの役に立つと思って何事もトライしていきたいなーと体力があるうちは思う。

 

RPGゲームをどのようにクリアするのが好きだろうか。

攻略を見てクリア一直線に必要最低限のことをしてシナリオを楽しむ人もいれば、感覚とかを頼りに紆余曲折を経てクリアする人もいるだろう。回り道をする過程で戦士なのに呪文を覚えたり、反対に武闘派な僧侶や魔法使いが出来上がってしまったりするかもしれないけれど、「無駄」に費やした時間を後悔するよりは、意味なかったわ!って笑い話にするぐらいのメンタルでいたいよな。

院試結果

院試結果がでた。

受かってた。なんなら、内部生は全員受かったらしい。めでたしめでたし。

 

ということで、あと2年は大学にいることが出来るようになったわけだが何をしようか。

化学を勉強するのはもちろんなのだが、それだけで終わってしまうのは何かつまらない気がする。…実際には生活に余裕がなくそれで終わってしまうことも十分あるとは思うが。

 

将来的に使いそうな知識を習得したいとは思えど、それが実際に何を指すのかはわからない。高校生の頃は、大学に入れば社会での貢献の仕方とか自ずと理解するようになるのかと思っていたが、大学4年になっても将来に対する解像度が低い。目指したい方向がはっきりしない。このまま漠然と年齢を重ねて、目の前のタスクを消化し続ける日々になるのだろうか。

 

自分は意外と(?)感覚で生きている節がある。熱しやすく冷めやすいタイプで、思いついてからの行動はそれなりに早い方だと思うけれど、行動を継続するのはそこまで得意ではない。

自分にそういうキライがあるのを認めているからこそ「雑食的に」行動したいと最近は思う。芯のない生き方が気にならないわけではないが、少し気になったものは短期間で少しかじってみるぐらいの感じでいきたい。

 

ところで、時間の制限がある生活の方がより外に目が行くのは何故なのだろう。院試休みが終わってからの方がやりたいことが増える。現実逃避に似たものなのなのかもしれないけれど、現実逃避でタスクを増やすのは愚の骨頂だ。

活動的な時ほど力量不足を実感する。一方で、「井の中の蛙」になりたくないという気持ちもある。とりあえずは自分なりに走り続けたいよな〜。

 

これからも少しずつ更新しよう。考えを文字に起こすのは定期的にしておきたい。

 

p.s 

東京事変 「今夜はから騒ぎ」

 

 

院試休み 最終日

ついに明日院試だ。

 

この1ヶ月を振り返ってみる。

時間がある、という生活は少し懐かしかった。

しかし、暇がある、というのは、時間を持て余しているようで、何かうまく使えていないような気がしてならない。というのもこの一年弱は走りながら考えることをモットーとしていたがいざ時間があると腰が重い。まあ過ぎ去ってしまったことは仕方ないし、そういう自分の傾向を受け止めて、これからの生活にいかしたい。

 

そういう意味では、時間が限られると、空き時間が輪郭を帯びてくる。もっと抽象的に言えば、少数派の時間を意識するようになる。社会人に近づき、年齢を重ねるにつれて「空き時間」を意識するようになるのだろうが、そんな生活も人生っぽくて少し憧れる。

 

 

この前、就職の決まった同期と温泉に行く機会があった。

その時の話の中で、彼が社会人になりたくないな〜とぼやいていた。学生の間は何もしなくても時間が進んでいて、今の生活が正直楽、というのは分かるな〜と思いつつ、来年から彼はどのような心持ちで働いているのだろうなと想像してしまった。その時は、「休日何する?」「趣味でも始めるの?」「彼女作るしかないよな??」とか理想と現実の見境のない雑談を裸でしていた。

今、これを書きながら、彼はどう社会に馴染んでいるかを改めて想像してまう。仕事は無難にこなして、休日までの日数を数える日々なのかもしれないし、環境が変わって仕事スイッチが入るかもしれない。どんな生活をしていても社会人の先輩には変わりはないし、社会人自慢の1つや2つ持っておいて欲しいな〜と密かな期待をしている。

 

そこから、自分の就職を少しだけ考えてみた。

社会において、一体何がしたいのだろうか。その問題意識はいまだにわからない。「少しでも世の中をよくしたい」という漠然としたMissionめいたものは薬学部に入る前から持ってはいたが、それは果たして創薬に携わることによって達成されうる目標なのだろうか。

どのように働きたいか、というのも大切であるように思う。研究職という専門職についていくこと、いわば知識を深めていくのが好きなタイプかと言われると少し疑問ではある。どちらかといえば、色々なことを経験、学習してみたいと思うタイプだと自分では思っている。

 

やりたいこととやらなければならないものは別で、自分はどちらを意識すべきか。漠然とした目標に従って行動するのであれば、後者が良いとされるわけだが機械的にそう選択するのは脳死もいいところだろう。

研究職と総合職、そんなところから悩んでしまうのだから就職した人を尊敬してしまう。彼らに追いつける日は来るのだろうか、などとぼんやり思いながら明日から研究室生活をまた始めたい。

 

 

 

 

 

 

 

院試休み 12、13日目

何か漠然とした日だった。

 

集中力も続かないし。何だこれ。

だらけているとその日の夜に不安感に駆られる。

 

高野悦子の「二十歳の原点」は1969年に書かれた日記を抜き出した著書だ。著者は二十歳で自殺を図っており、その日までの日記がこの本に綴られている。

人間関係、理想。それに加えて、当時の不安定な社会情勢。あらゆるものから影響を受け、次第に心が衰弱していく様は文字だけでも想像に難くない。

 

理想を追うために勉強をするが、体がついていかない。それに失望するのはいつだって自分自身だ。罪悪感から逃れるために酒が増える。負のループが止まらない。

何事もうまくいかない。けれど、個人の問題を誰に助けを乞うのか?

 

大人になる(年齢を増す)につれて、諦めがわかってくる。理想から何歩引き下がったところでゴールとするかは人によって違うだろう。むしろ、理想を基準とするのではなく、現時点での位置を基準とするのが大人だと思う。

メンタルコーチなどを自称する人間が「大事なのは自己肯定感だ」と言い、ツイッターで「いいね」を集める。良い生き方だと頭ではわかっていながら、そちらに吸い込まれるといつしか虚無に襲われてしまう気がしてしまう。

今の自分に満足できない焦りを活力にしたいよな。

大人になれない子供なのか、子供のままの大人なのか。

 

 

ところで、理想の中に仕事が含まれるかは、本当に人によって異なると思う。

仕事に対する価値観は自分が聞く中でも大きく二分する。お金のための労働、自分のための労働のふたつだ。前者は、仕事を金策と捉えていて、生活のためであるとか、趣味などのプライベートに対する対価として労働があるという考えだ。わかる。

一方、後者は自己成長の一言に尽きると思う。得られる知識、経験に価値を置いている。

どちらが正解とかはないが、前者が普通だと思う。それに、経済環境と切っても切り離せない話だから、選べる人間は多方な面で恵まれていると思う。

それでも、自分はこの後者の価値観を大切にしたい。窓際社員とか言われるのもなんか嫌だし、自分は力があればどうにか生きていけると思っているタイプの人間だからだ。

 

 

バンジージャンプをして終える人生と、せずに終える人生なら圧倒的に前者を選ぶ人間でありたい。感情よりも好奇心を大切にしたい。見切りをつけて「やる意味」を問う人間ではありたくない、そんなことを思いながら、いつかやろうと思っていたアプリ開発の参考書がこちらを睨んでいる気がしてならない。

 

 

院試休み 10、11日目

休日はだらける。

 

この四日間は特に勉強した記憶がない。遊べるときに遊んでしまった。

 

最近、椎名林檎東京事変にハマっている。

有名だけど「透明人間」がやっぱりいい曲すぎる。ピアノの曲好きなのかもしれない。

 

「閃光少女」を聴いていると、今を大切にしろ、と何か背中を押される気持ちになる。青春っぽい。

 

「キラーチューン」は「贅沢するにはきっと妬まれなきゃいけないね」って言ってるし、いい思いして他の誰かがよく思わないなんてことは往々にしてあるんだと思う。

 

そんな言葉を胸に、遊んだ。平日とメリハリつけていきたい。